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梅の大辞典

梅の唄

梅の大辞典 「令和」という元号が万葉集の第5巻「梅花の歌」の序文からの出典でしたので、由来に関する短歌を目にされる機会も増えているかもしれません。
ここでは梅に関する短歌をご紹介します。


勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答へん

意味:天皇の命令であれば畏れ多く、もちろん梅の木は献上いたします。しかし、毎年梅の木に来ていたウグイスに「私の宿はどこですか?」と聞かれたら、私は何と答えればいいのでしょう?
平安時代、村上天皇の頃、平安京の清涼殿にあった梅の木が枯れてしまいました。
若い者では、木の良し悪しがわからないだろうからと考えて、夏山茂樹という人にすぐに替わりの木を探すように命じます。あちこちと散々探し回り、ようやく西の京に色濃く咲いて大変美しい枝ぶりの素晴らしい木を見つけることができました。家の主人に事情を話し、さっそく梅の木は掘り返されて清涼殿へ運ばれました。家主がこれを結んで欲しいと枝に短冊を結びつけ、何かわけがあるのだろうと結んだまま持ち帰りました。
清涼殿に移植された梅の木は大変立派なもので、村上天皇も大変喜ばれましたが、ふと見るとそこに短冊が結ばれています。
天皇が結びに気付き、開いて見ると、そこには女性の筆跡で唄が記されていました。


勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答へん

見事な唄にただならぬものを感じ、すぐにどこの者の家かと確認させると、「紀貫之の娘」の家だということ、その梅は、父の形見だったことが分かりました。
天皇は、恥ずかしく思い、梅に鴬宿梅と名づけて返し、娘に紅梅内侍の名を賜ったと言われています。


東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ

意味:春になって東風が吹いたら、香りだけでも私のもとへ届けておくれ、梅の花よ。主人がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。
昌泰4 年、時の右大臣であった菅原道真は、左大臣である藤原時平の策略により、太宰府へと左遷されることとなりました。いよいよ住みなれた都を去る日、幼い頃より親しんできた自宅の梅の木に、


東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ

と詠いかけました。これからは直接見ることができない梅の木を想って、悲しい気持ちで詠んだのでしょう。「春に東から吹く風」のことを「東風」といいますが、太宰府に向かう道真にとって「東風」は京都からの香りを届けてくれる風だったのでしょう。

主人(あるじ)を慕った梅は道真を追いかけ、一夜のうちに道真の元へ飛んで来たといわれています。これが有名な飛梅伝説です。
実はこの話には続きがあって、とても素敵な話だったのでご紹介します。

道真には白太夫(本名:渡会春彦)という老家臣がおりました。道真は都を去る前に、秘蔵の梅と松を鉢に植え替え、これを自分の形見と思うように、と白太夫に托していました。
左遷から一年後、都に道真の噂も聞かれなくなった頃、道真に托された松が枯れてしまいます。見れば、梅も枯れかかっていて、道真公の身に凶事でもあったのではないか?と白太夫は心配になりました。流人である道真に会うことは禁じられていて、見つかると自らも罪に問われてしまいます。しかし、枯れかかる梅に居ても立っても居られない白太夫は、梅の鉢を携え道真のもとへ急いで向かいました。

何とか太宰府に着いた白大夫でしたが、道真が謹慎する太宰府榎寺は、厳しく監視されています。農夫を装って境内に入り込んだ白太夫は、庭先から声をかけました。
「申し上げます。この梅が公を慕ってまいりました。」
覚えのある声、そして都の梅・・・。主従の関係を超えたまごころの贈りものとなった一鉢の梅は、不遇の道真をどれほど感激させたかは想像に難くないでしょう。

流人に会いにきたという事実が知れると罪に問われる白太夫の身を案じ、道真は周りの者に「都の梅が一夜のうちに飛んできた」と告げました。これが「飛梅伝説」の由来となりました。
翌年、梅は見事に花開いて都の香りを漂わせ、道真を喜ばせました。そしてこれが道真の見た最後の梅となります。この年の2月25日、道真は病に倒れ、享年59歳の生涯を閉じました。

最後に主人に会って喜んでもらいたいという梅の想いが白大夫に伝わったのでしょうか?